8. 掃除の日

今日は、2か月ぶりの掃除の日だ。
掃除といっても、部屋の掃除とか、公園の掃除とかではない。
今日は、2か月ぶりの、脳の掃除の日だ。
脳の表面には、多くのしわがある。そのしわには、垢のようなものが蓄積する。
ひとの臓器は、内臓であれば、内側が消化液などで常に洗われており、垢などが蓄積しないし、外側は他の臓器や筋肉、骨などにくっついていて、垢などが蓄積するところはない。
一方で、脳は、頭蓋骨に収まっているだけなので、しわの部分には隙間があり、洗われることもないために、物質が蓄積するのだ。
不潔な話だが、体の表面に垢がたまってくると、かゆくなってくる。
それと同じように、脳の表面に垢が貯まってくると、脳がかゆくなってくる。
近年の医学の進歩と言えよう、脳の表面を掃除する技術が開発され、定期的に掃除をする人が増えた。
やり方は意外と単純で、頭皮をはがし、頭蓋骨を横に切って、パカッと蓋をあけるように開くと、脳が現れるので、その表面を特殊な洗浄液で洗い流すのだ。
掃除が終わると、頭蓋骨と頭皮を器具で貼り合わせる。
一度その器具をつけてしまえば、2回目からは、その器具を外すだけで、頭蓋骨を開けて、脳を洗浄することができるようになる。
もちろん、掃除中は、全身麻酔で眠った状態だ。脳そのものは、痛覚を持たないため、掃除中に痛みを感じることはないのであろうが、何せ、脳であるから、意識のない状態にしておく必要があるからだ。
脳の掃除の後は、何とも言えず、すっきりした気分になる。
今日も2時間の掃除が終わり、すっきりした気分で麻酔から醒めた。
帰りの足取りも軽い。
今や、2か月おきの脳の掃除は、自分に欠かせないものとなっている。

ある日、ニュースが流れた。
脳のしわに蓄積する物質が、垢やごみではなく、情報伝達機能を維持する成分を分泌して、脳を正常に保つために欠かせないものであることが分かったのだ。
かつて、虫垂が、なにも生理機能がなく、無用の器官と言われ、虫垂炎などの異常がなくても切除すべきとされていたのが、その後の研究により、善玉菌の備蓄機能を備えていたり、セルロース分解バクテリアの棲息場所となっていたり、免疫機能上、欠かせないことが判明したのと同じような話だ。
世の中は騒然となった。
命への影響はないのか、脳が異常をきたすことはないのか。
病院や保健機関には、質問が殺到した。
その後、その物質は、掃除などで取り除いても、2か月で新たに蓄積することがわかり、皆、ひとまずはほっとした。
それもそのはずで、だから2か月おきに掃除に行っていたのだ。

それ以来、脳の掃除の日はなくなった。

さて、今日は、半年ぶりの、心の掃除の日だ。



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7. うどんげ

久しぶりに、うどんげを見つけた。
うどんげは、クサカゲロウの卵塊で、数ミリの細い糸の先に、白く透き通った楕円形の卵がぶら下がったのが2個、葉の裏に並んでいる。普通は1つしかつけないが、たまに複数の卵をつけることがある。
透き通った白さがきれいであり、可愛らしくもある。
うどんげという呼び名は、想像上の花「優曇華」からきている。

見ていると、卵のひとつがもぞもぞと動いている。
そのうちに、その卵に縦に裂け目が入り、中から、幼虫らしきものが覗いた。
よく見ると、小さな人のような形をしている。
そうこうしているうちに、その幼虫は、卵の裂け目から、ぽとりと地面へ落ちた。
それは、二本足で立ちあがると、さささっと走って、どこかへ行ってしまった。
気づくと、もう1つの卵にも裂け目ができ、人のような形の幼虫が動いている。
突然、強い風が吹いて、葉を揺らした。
その卵は、風にあおられ、葉からするっと抜けるように、宙を舞った。
その白い糸は、そのまま、2階の窓のあたりへ飛んでいった。

しばらく経ったある夜、2階の、娘の部屋から、笑い声が聞こえてきた。
歌う声も聞こえる。
誰かに話しかけているような声も聞こえる。
子供が、ぬいぐるみに話しかけることは、よくあることだ。

次の日、妻が、娘に聞いた。
「昨日の夜は、楽しそうだったね。」
「うん」
「誰とお話ししてたの?」
「あのね、こびとさんと遊んでたの。」
想像の生き物が、あたかも目の前にいるかのように話しかけることは、子供にはよくあることだ。

「見て。なんか、きれいな虫。」
妻が、娘の部屋を掃除していたら落ちていたと言って、わざわざ持ってきた。
うすみどり色の体に、薄く透き通った羽。
クサカゲロウの死骸だ。
クサカゲロウの成虫は、羽化してから1日しか生きられない。
その短命さにたとえて、「かげろうの命」と言う言葉がある。


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6. 赤い車

その少年は、車が好きだ。
特に、イタリア製の、そのスポーツカーが好きだ。
その車は、とても庶民では手に入れることができないような高級車だが、その車に憧れる人は大勢いる。
少年もその熱心なファンの一人だ。
中でも、その車のシンボルカラーとされる、赤い車が大好きだ。
その赤い車には、他とは違う、特別な存在感がある。
少年の部屋は、壁という壁に、その車の写真やポスターが貼られ、模型やミニカーであふれ返っていた。
その車に関するコレクションは、少年の趣味であり、人生と言ってもいいほどであった。

その車を街中で見かけることは、なかなかない。
ごく偶に見かけたときは、絶好のシャッターチャンスだ。
すかさず、スマホで、その車を連写する。
うまく撮れたときの満足感には、この上ないものがあった。
少年はカメラマニアではないので、カメラを持ち歩いているわけではない。
だから、スマホのカメラで写真を撮る。
撮った写真は、パソコンの壁紙にしたり、印刷して部屋に貼ったりしている。

少年も成長する。
もう、少年と呼ぶにはふさわしくない年齢になったが、赤い車のコレクションは変わらない。
一方で、成長とともに、現実というものも認識するようになる。

彼は、消防士になった。
もちろん、消防車の運転をする。
その赤い車には、他とは違う、特別な存在感がある。

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5. チャンスと呼ばれた男2

ある会社に、チャンスと呼ばれた男がいた。
生まれつき、前髪しかないが、その前髪をつかんだ者は、みな、チャンスをものにすることができた。
彼は、社員から、陰で「チャンス」、「チャンス君」と呼ばれ、とても大事にされていた。
ある日、彼は会社を辞めた。
噂では、彼自身が大きなチャンスをものにしたということだった。
社員たちは、とても残念がった。
それ以来、心なしか、会社には活気がなくなり、業績もパッとしないものとなった。

そうした状況が続くうちに、誰からともなく、チャンス君を作ろうということになった。
会議室に数人が集まり、誰をチャンス君にするか、話し合った。
「女性社員は、さすがにその髪型は無理だろう。」
「自分は家族に驚かれる。」
などなど、なかなか、チャンス君が決まらない。
小一時間近く話し合っただろうか。
「それなら、自分が。」
と、一人の若手社員が名乗り出た。
彼は独身で一人暮らし。彼女もなく、休みの日はゲームに夢中で、外出することもないので、周りに驚かれるという心配もない。
彼としても、そのうちに、自分でもチャンスをものにしようという算段もあった。
早速、彼の頭は、少しの前髪を残して、他は丸坊主にされた。
翌日から、社内には活気が戻り、それに合わせて、業績もよくなっていった。

しばらくしたある休日、珍しく外出した彼は、宝くじ売り場の前を通りかかった。
「これだ。」
彼は、宝くじを数枚買った。
買うときに、自分の前髪をつかみながら、「当たりますように」と念じ、宝くじを受け取った。

彼の生活は変わらなかった。
いつも通りに出社し、いつもの仕事をこなし、時々、誰かに前髪をつかまれる。
宝くじは、末等が数枚当たっただけだった。
その後も宝くじを買っては見たものの、高額当選とはほど遠いものだった。
慣れない競馬やパチンコなどのギャンブルにも手を出してみたが、ただただ金をつぎ込むばかりで、チャンスも利益もほとんどなく、運には見放されたようだった。
一方で、仕事では、前髪をつかみながらチャンスを活かし、成績は順調だった。
また、前髪をつかみながら、意中の彼女と結婚した。

何年かが過ぎ、前髪をつかまれる人生が面倒くさくなってきた。
前髪以外を剃ることをやめた。
次第に髪は伸び、前髪は頭髪全体に埋もれ、チャンス君の頭ではなくなった。
もう、誰も彼の前髪をつかむこともなくなった。
その頃から、会社には活気がなくなり、業績もパッとしないものとなった。

そうした状況が続くうちに、誰からともなく、チャンス君を作ろうということになった。
話し合いの結果、一人の若手社員がチャンス君となった。
翌日から、社内には活気が戻り、それに合わせて、業績もよくなっていった。
何年かが過ぎ、彼も前髪をつかまれる人生が面倒くさくなり、前髪以外を剃ることをやめ、チャンス君の頭ではなくなった。
その頃から、会社には活気がなくなり、業績もパッとしないものとなった。

そうした状況が続くうちに、誰からともなく、チャンス君を作ろうということになった。
話し合いの結果、一人の若手社員がチャンス君となった。
翌日から、社内には活気が戻り、それに合わせて、業績もよくなっていった。
何年かが過ぎ、彼も前髪をつかまれる人生が面倒くさくなり、前髪以外を剃ることをやめ、チャンス君の頭ではなくなった。
その頃から、会社には活気がなくなり、業績もパッとしないものとなった。

以下、続く。


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4. 蜘蛛の糸

彼は、長い間、闘病生活を続けていた。
そんなある日、相変わらず、病院のベッドに寝ている彼の目の前に、キラキラと銀色に光る細い糸が垂れてきた。
見ると、蜘蛛の糸だった。
彼の目の上、数センチのところで、糸は止まった。
彼は、昔読んだ小説「蜘蛛の糸」を思い出した。
しかし、彼は、その小説の主人公のように、地獄にいるわけでもなく、病院で病の床に伏せっている。
「違うな」と思ったが、試しに、その糸を片手でつかんでみた。
手には糸の感触があった。
思ったよりも丈夫そうだ。
もう片方の手で、糸をたぐりよせるように引いてみると、そのまま、上体がベッドから起き上がる形勢になった。
そのまま、両方の手で、糸をたぐりながら、彼の体はベッドから離れ、蜘蛛の糸を、上へ上へと上っていった。
何も意識せずに、しばらく上っていったが、あるところで、ふと我に帰った。
小説では、下から地獄の亡者たちが自分の後を上ってくることになっていた。
彼は下を見た。
はるか下の方に、さっきまで自分が寝ていたベッドが見えた。
地獄の亡者たちは上ってこない。
蜘蛛の糸につかまっているのは、自分ひとりだった。
安心した彼は、その後も、どんどん、糸につかまって、上へ上へと上っていった。
どのくらいの時間、上ってきただろう。
上の方に、雲のような、靄がかったものが見えた。
あそこまで行ってみようと、彼は思った。
上り続けていくと、雲の縁から、誰かの姿が見えた。
もっと上ると、それが、お釈迦さまの姿だとわかった。
金色に輝き、荘厳な姿だった。
彼が、雲の縁までたどり着いたとき、お釈迦さまが、彼に片手を差し伸べた。
彼はその手を握った。
その手は冷たく、気味の悪い感触だった。
思わず、彼は、握った手をふりほどいた。
次の瞬間、彼は、真っ逆さまに落ちていった。

「脈が戻った。」
「峠は越えましたね。ご安心下さい。」
「先生、ありがとうございます。」
そして、彼を呼ぶ家族の声。
ぼんやりと、彼は目を開けた。
そこには、彼をのぞきこむ家族と、医者、看護師がいた。



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3. 二つの顔を持つ男

彼の顔の骨には、何か所かに関節があった。
通常、人の顔は、複雑に張り巡らされた表情筋をきめ細かく動かすことにより、様々な表情を見せる。
彼は、それに加えて、頬骨や眼窩等の箇所に関節があり、骨自体も動くようになっており、表情だけでなく、顔の構造や特徴そのものも変化するようになっていた。
そうは言っても、関節は、単純な動きしかすることができないため、その変化は2種類しかなかった。
だから、彼は、時によって、別々の二つの顔を見せることができた。
彼が出生してすぐは、赤ん坊の顔は泣くとき以外は変化がないため、彼の顔が変化することはなかった。というよりは、二つの顔がわかるほどの変化は見られなかった。
生まれて数週間が過ぎて、少しずつ表情を見せるようになると、時々、二つの顔に変化するようになった。
母親が少しよそ見をしている間に顔が変わり、別の子が寝ていると驚いた。
服はもともと着せているものだから、中身が入れ替わったのか、自分の頭がおかしくなったのか、と混乱しているうちに、ふと元の顔に戻ってしまう。
気のせいだったのかと、その時は平静に戻る。
そうしたことが繰り返されるうちに、家族は、彼の顔の変化を認識するようになっていった。
当然、両親は医者に相談し、彼の顔の不思議を理解することとなった。
医者は、学会で発表したいと言ったが、両親にとっては名誉なことではないため、これを断った。

彼自身はどうかと言うと、鏡に映る自分を認識できる年齢になった辺りから、自分が二つの顔を持つことを意識し始めた。
ただ、顔の関節を自分で意識して動かしたことはなく、いつも、顔は突然に変化した。
なぜ、顔が変わるのか、自分の顔を触っているうちに、関節の存在に気付いた。
自分で意識して顔を変えようと試みたが、うまくいかない。
なぜなら、顔の関節を動かすための筋肉がついていないからだった。
腕や脚の関節であれば、骨に筋肉がついていて、筋肉の収縮によって腕や脚を曲げることができるが、顔には表情筋はあっても、骨を動かす筋肉はついていない。その点は、彼も同じだった。
しかし、関節の動きによって、顔が変わるのであるから、関節を動かすことができるはずである。
彼は、表情筋をいろいろと動かして、顔の関節を動かす練習を始めた。
もともと、表情筋は、顔の骨についているわけではなく、関節を動かすものでもないため、なかなか思うように顔の関節を動かすことはできなかったが、彼は諦めずに練習を続けた。

人は、努力すれば報われるものだ。
ついに、彼は、顔の関節を動かして、自在に顔を変えることができるようになった。
小学校に入る前に、それをできるようになった。
もし、その前に小学校に行っていたら、おそらく、彼は周りから気味悪がられ、イジメにあうことは目に見えていた。
幸いにも、彼自身の意識と努力で、小学校入学前に、自分で顔をコントロールできるようになり、学校では、イジメにあうこともなかった。

顔を変えることができる。
これは、なんと便利なことか。
彼は、普段の顔と、悪いことをするときの顔と、二つを使い分けた。
人間は、悪いことをするときは、心も悪い心になる。
彼も、悪いことをするときは、悪いこと用の顔になり、悪い心になる。
顔と心は同期するようになり、悪いことをするときは、意識しなくても、悪いこと用の顔になるようになっていった。

心は顔に表れる。
彼は、普段でも、ふと悪いことを思うと、ひとりでに、悪いこと用の顔になってしまうことも度々起こるようになった。

顔は心を映す。
例えば、鏡をみながら、気まぐれに、普段用の顔を悪いこと用の顔に変えてみる。すると、そのときに、心は悪い心になる。
普段用の顔に戻ると、普段の心に戻る。
鏡を見てなくても、悪いこと用の顔にすると、悪い心になる。

心と性格はつながっている。
性格は人格につながっている。
悪い顔と悪い心。
普段の顔と普段の心。
悪い顔と悪い人格。
普段の顔と普段の人格。
彼には、二つの人格が存在するようになった。
それぞれの人格は、顔の変化で現れる。
無意識に顔が変化するときは、それに応じた人格が現れる。
普段用の顔のときに、なにかの弾みで、悪いとき用の顔に変化すると、突然に、無意識のうちに、悪い人格が現れる。
その逆の場合もある。
変化の間隔が短いとき、人格の切り替えが追いつかず、二つの人格が共存することがある。
そのときには、人格の衝突が起こり、心の衝突が起こる。

次第に人格が衝突することが増えてきた。
それぞれの人格が自我を持ち、常に表に現れようとするようになった。
彼は自分で人格をコントロールできなくなってきた。

ついに、彼の人格は破綻した。
二つの人格が衝突し、決裂した末に、人格の破壊に至った。

とある精神病院の一室に、二つの顔のいずれでもない別の顔をした、全くの無表情の彼がいる。


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2. さかな顔

「水泳の選手って、さかなの顔だね。」
競泳をテレビで見ていた妻が言った。
「○○選手は、サバ。」
「△△選手は、サンマ。」
「みんな尖がった、三角の顔で、目が横にある。」
「速く泳ぐために、進化したんだね。」
「そう言えば、以前、天才少女って言われた女子競泳選手は、ヒラメ顔だった。」

妻は、この1年ほど、地元のスポーツクラブで水泳を習っている。
彼女の顔は次第に尖ってきた。
左右の目の間隔も離れてきた。
顔の肌も硬く、薄く細かい丸い皮膚が重なっているような肌になってきた。

水泳を始めて3年が経った。
妻の顔は、口元と顎が前に尖がり、目は真横に、肌は銀色の鱗に覆われ、完全に、鰺の頭になった。

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1. チャンスと呼ばれた男

彼は、生まれつき、前髪しかない、特殊な禿頭症だった。
物心がついて、一人で外出するようになると、度々、すれ違いざまに、その少ない前髪をつかまれることがあった。

大学を出て、社会人になると、いろいろな雑学を知るようになる。
会社勤めを始めて数ヶ月経った頃、偶然ではあるが、チャンスの神様のことを知った。
チャンスの神様は、前髪しかなく、猛スピードで追い越していくので、その瞬間を捉えて、前髪をつかまないと、チャンスの神様は逃げていくものだ。
彼は、この人生で度々前髪をつかまれることがなぜなのか、初めて知った。
その頃と前後して、社内で、彼が「チャンス」と呼ばれていることを知った。
入社以来、社内でも、度々前髪をつかまれることがあった。
つかんだ相手は、にこっと笑みを浮かべ、通り過ぎていく。
振り返ってみれば、彼の前髪をつかんだ社員は、トラブルを解決したり、プロジェクトを成功させたり、或いは、出世した者もいた。

彼は、もともとおっとりした性格も幸いして、社内ではイジメやパワハラにあうこともなく、そこそこ重宝されていたが、とりわけ昇進するということもなく、よく言う平社員で何年かが経った。
相変わらず、社内でも、街中でも、前髪をつかまれることがある。
さすがに、もう何年もの間、前髪をつかまれ続けてくると、次第に面倒くさくなってきた。
ある日、彼は、外出のときは、帽子を被るようになった。
会社でも、工場勤務への異動を申し出て、作業帽を被って仕事をするようになった。
前の職場は事務職だったが、そこの社員は、言葉には出さないものの、とても残念そうだった。

ある休日、彼は、宝くじ売り場の前を通った。
何となく、宝くじを数枚買うことにした。
宝くじを受け取るときに、帽子の縁に少しはみ出た前髪に小さな虫がとまった。
彼は、片手で、前髪ごと、その虫をつかんだ。

しばらくして、彼は会社を辞め、安アパートを引き払って、東京のマンションに引っ越した。
そして、人もうらやむような美女と結婚し、高級車を乗り回し、高級クラブで毎夜飲み明かし、豪遊の限りを尽くした。
チャンスはいつでも手に入れることができた。

人の欲にはキリがない。
彼にとって、これまでにない最大のチャンスが訪れた。
「絶対にものにしてやる。」
彼の欲の強さは頂点に達した。
彼は、力任せに、渾身の力をこめて、自分の前髪をつかんだ。
力のあまり、つかむと同時に、そのまま前髪を根こそぎ引き抜いてしまった。

数か月後、都内の某公園に、一人のホームレスの姿があった。
頭は禿げ上がり、額には、髪を引き抜かれたかのようなアザがあった。


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